その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供を産みました。しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。

お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様は、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父の嘆きやいかん」と戒めました。

そこで帝母ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。

 鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用い尊称しております。


○建立趣旨

飯能鬼子母神が、ゆかりの地「真言宗智山派観音寺」に建立され、同住職服部融亮導師により新しく開眼披露されたのは、平成十九年十一月二十三日のことです。吉祥果ザクロを手に持ち、胸に子を抱く鬼子母神は、古来より安産・子育て蓄財吉祥の仏として人々の信仰を集めて参りました。

この鬼子母神堂は、観音寺宗祖弘法大師が遣唐使として学んだ長安(中華人民共和国西安市)青龍寺の土が御堂下に埋められており、ザクロの街、西安「青龍寺」とザクロの里、飯能「観音寺」との友好のシンボルでもあります。

また飯能鬼子母神は、ザクロの里飯能の象徴として、飯能商工会議所青年部が創立間もなく進めてきた飯能名物づくり事業の一環でもあり、尊像は、飯能在住の彫刻家、佐藤敏明氏の手により、地元西川在の日の木から創出され、御堂は現代の名工、吉澤良男氏をはじめ地元建設関連企業の熱意と、裏面に連名の多くの寄進による浄財で完成を見ました。周辺の飯能河原・天覧山と共に飯能観光拠点の一つにもなっています。(飯能商工会議所 青年部)


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